【映画評】『チャイコフスキーの妻』(2022)(監督:キリル・セレブレンニコフ)(感想・あらすじ)

『チャイコフスキーの妻』(2022)(監督:キリル・セレブレンニコフ)の概要

スタッフ

上映時間145分(2時間25分)
制作年2022年
製作国ロシア、フランス、スイス
担当名前
監督・脚本キリル・セレブレニコフ(Kirill Serebrennikov) (『インフル病みのペトロフ家』(2021))
プロデューサーイリヤ・スチュワート(Ilya Stewart) (『殺人鬼の存在証明』(2021))
撮影監督ヴラディスラフ・オペリヤンツ(Vladislav Opelyants) (『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』(2020))
音楽ダニル・オルロフ(Daniil Orlov)
出演アリョーナ・ミハイロヴァ(=アントニーナ役)
オジン・ルンド・バイロン (=チャイコフスキー役)
フィリップ・アヴデーエフ (=アナトリー&モデスト役)
ユリア・アウグ (=教会にいる女性役)

予告編

音楽

あらすじ

19世紀ロシアの天才作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーと、彼を盲目的に愛した妻アントニーナ・ミリューコワの残酷な愛の行方を描いたこの伝記映画は、長年タブー視されてきたチャイコフスキーの同性愛と、「世紀の悪妻」の汚名を着せられたアントニーナの知られざる実像に迫る。

チャイコフスキーの弟モデストの伝記によれば、アントニーナは「誠実に、そして心から」振る舞い、意図的に夫を欺くことはなかった。一方、チャイコフスキーも「誠実に、率直に、彼女を何一つ欺くことなく」振る舞ったという。しかし、女性の権利が著しく制限されていた19世紀後半の帝政ロシアにおいて、世間体のために結婚したチャイコフスキーと、彼に熱烈な恋文を送っていたアントニーナの結婚生活はすぐに破綻する。

二人は結婚後、「恐ろしいことに気づいた…二人の間には相互理解の埋めることのできない深い溝があり、二人はまるで夢の中にいるかのように振る舞い、すべてにおいて無意識のうちに間違いを犯していたのだ」。愛する夫から拒絶されたアントニーナは孤独な日々のなかで次第に狂気に駆られていく。結局、「完全な別離は、二人の内面の幸福を取り戻すだけでなく、ピョートル・イリイチの命を救う唯一の方法だった」のである。

この映画は、史実をもとに大胆な解釈を織り交ぜながら、チャイコフスキーとアントニーナの悲劇的な関係性を、19世紀ロシア社会の厳しい現実と共に描き出している。

感想

1. 監督キリル・セレブレンニコフの特徴的なスタイル

『インフル病みのペトロフ家』や『LETO -レト-』で常にカンヌ国際映画祭のコンペティション部門の常連でもあるキリル・セレブレンニコフ監督が初めて挑んだ歴史メロドラマ作品である今作でも独特な映像美と演出スタイルは活かされている。

彼のアプローチは、ケン・ラッセルの『恋人たちの曲/悲愴』(原題:「The Music Lovers」(1970)) ※日本ではVHSのみリリース や、ソ連側で作られたイーゴリ・タランキンの『チャイコフスキー』(1969)とは違う印象を与えるが、その理由はこの前述の作品が、この作品は出来るだけチャイコフスキー自体により事実に迫りたいとあった点だ。

2. アントニーナ・ミリューコワの視点からの物語

この作品の見方が違うのは、前提として、親族を中心にチャイコフスキー側の人々の証言を中心に構築してきたため描かれなかった側面があり、時代が進むに連れ明らかになった歴史的な研究書の内容がかなり取り込まれている様子である。

主な参考文献としては、以下のもののようだ。

  • 『Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man』(1991)(Alexander Poznansky(アレクサンダー・ポズナンスキー))
  • Valerii Sokolov,Антонина Чайковская: История забытой жизни [Antonina Tchaikovskaia: The Story of a Forgotten Life] (Moscow, 1994)

しかし、こうした文献を参考にしつつも、チャイコフスキーはロシアにおいて象徴であることも影響し、その作品の描き方には直接的な形にすると制限がかかるため、本作は、チャイコフスキーの妻アントニーナの視点、レンズを通して物語が展開される形になっているようにフィクションとして変更が加えられている。彼女の執着と狂気に近い愛情が、映画全体を通して描かれ、観客を不安定な心理状態へと引き込む。
(実際、チャイコフスキーは妻アントニーナとは別居後会っていない、という注記が最後に入る。)

3. 狂信的な愛を抱えた女性の生涯とトラウマ

チャイコフスキーにはより客観的な視点を与えつつ、アントニーナの生涯には脚色を加えているが、この映画は信仰に近く報われない歪んだ愛を、スリラー映画のような形で描いたと言える。この部分が鑑賞者には緊張と不安感を与えることには成功しているとは言えるだろう。

4. 印象的な撮影技法と視覚表現

技巧面では、『インフル病みのペトロフ家』や『LETO -レト-』に続いて監督作品で組んだ、撮影監督ヴラディスラフ・オペリヤンツ(Vladislav Opelyants)の大胆なカメラワークや長回しのショットや夢幻的な表現が、物語に独特の雰囲気を醸し出している。

この表現を生み出した背後には、19世紀ロシアに関する資料が少なく、当時の絵画から大きな影響を受けたことが監督のインタビューで語られている部分の影響もあるだろう。

5. 19世紀ロシア社会の描写

ストーリーとしては、19世紀のロシア社会における結婚制度や社会規範が、主人公たちの悲劇的な関係性の背景として描かれている。

6. アリョーナ・ミハイロヴァの演技

アントニーナ役を演じるアリョーナ・ミハイロヴァはロシア映画界の新星でありオーディションで選ばれた彼女の演技は高く評価され、物語の中心を支えた。

7. 映画の長さと展開のペース

ただ、全体的には映画の長さ(145分)と展開のペース配分については、特にアントニーナの執着が繰り返し描かれることで、観客に疲労感を与える可能性は否めないのが勿体なかった。

なお、監督はすでにこのレビューを描いている現在、ロシア人政治家のエドワルド・リモノフをモデルにした『Limonov, the Ballad』(2024)(原題)を完成させており、2024年のカンヌ国際映画祭にコンペティションに出品している。そちらも期待したい。