【映画評】『フェイブルマンズ』(2022)(監督:スティーヴン・スピルバーグ)の概要
作品概要
原題・英題 | The Fabelmans |
上映時間 | 151分(2時間31分) |
制作年 | 2022年 |
製作国 | アメリカ合衆国 |
メインスタッフ・キャスト
担当 | 名前 |
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監督・脚本 | スティーヴン・スピルバーグ |
脚本 | トニー・クシュナー |
撮影監督 | ヤヌス・カミンスキー |
編集 | マイケル・カーン |
音楽 | ジョン・ウィリアムズ |
出演 | ミシェル・ウィリアムズ |
ポール・ダノ | |
セス・ローゲン | |
ガブリエル・ラベル | |
ジャド・ハーシュ |
予告編
音楽
動画配信(主要サイト)
名前 | Prime Video | U-NEXT | Nexflix | Hulu | Lemino(旧dTV) |
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ロゴ | |||||
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あらすじ
1950年代初頭、ニュージャージーに住むユダヤ人の少年サミー・フェイブルマンは、初めての映画体験で映画製作に魅了される。コンピューターエンジニアの父バートと元ピアニストの母ミッツィ、そして家族の友人ベニーに囲まれて成長するサミー。
家族の転居に伴い、アリゾナそしてカリフォルニアへと移り住む中で、サミーは映画製作の腕を磨いていく。しかし、家族の秘密を偶然カメラが捉えてしまったことで、サミーは映画への情熱と家族への思いの間で葛藤する。
高校生となったサミーは、反ユダヤ主義のいじめや初恋、そして両親の関係の変化に直面しながら、自身のアイデンティティと映画への愛を探求していく。記録映画制作を通じて、サミーは映画の力と自身の才能に気づいていく。
映画への情熱を貫くサミーの姿を通じて、家族の絆、青春の苦悩、そして芸術の力が描かれる成長物語。
以下ネタバレ
感想・考察
スピルバーグの自伝的作品が語るもの
スティーブン・スピルバーグ監督の自伝的作品「ザ・フェイブルマンズ」は、彼自身の少年時代と若年期を描いた半自伝的な作品だ。1950年代のアメリカを舞台に、映画に魅了された少年が映画製作者として成長していく姿を、家族の物語と共に描いている。本作は単なる一映画監督の成長物語ではない。それは20世紀後半から21世紀初頭にかけて、映画界に多大な影響を与えた巨匠の原点を探る旅でもある。
スピルバーグは、これまでも「E.T.」や「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」など、自身の経験を反映させた作品を多く手がけてきた。しかし、「ザ・フェイブルマンズ」ほど直接的に自身の半生を描いた作品はない。なぜ彼は今、この時期にこの物語を語ろうとしたのか。それは彼の映画キャリアの集大成として、自身のルーツを探り、映画への愛を再確認する必要があったからではないだろうか。
主人公サミーとは誰か:スピルバーグの分身が体現する映画への情熱
主人公のサミー・フェイブルマンは、紛れもなくスピルバーグ自身の分身として描かれている。サミーの映画への情熱、家族との関係、そして成長の過程は、スピルバーグ自身の経験を色濃く反映している。特筆すべきは、サミーが映画に出会い、そして映画製作に没頭していく過程だ。
サミーが初めて映画館でセシル・B・デミルの「地上最大のショウ」を見て映画に魅了される場面は、本作の重要な出発点となっている。この場面は、映画の持つ魔力、観客を別世界へと誘う力を見事に表現している。サミーの目に映る大スクリーンの映像、彼の表情の変化、そして彼を取り巻く観客の反応。これらの描写は、映画が単なる娯楽以上の、人生を変える力を持つことを雄弁に物語っている。
その後、自作の8mmフィルムで列車の衝突シーンを再現する少年時代の描写は、スピルバーグ自身の原点を表現している。この場面は、単に少年の趣味を描いているのではない。それは、現実世界の出来事を再構築し、自らの視点で表現しようとする芸術家の誕生の瞬間なのだ。サミーが玩具の列車を操作し、カメラを回す姿は、後のスピルバーグの大規模な撮影現場を彷彿とさせる。
複雑な家族関係:映画の中心テーマとしての家族の崩壊と再生
本作の中心的なテーマの一つは、サミーの家族関係だ。特に両親の関係性の崩壊が重要な要素として描かれている。母親ミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)は複雑な性格と抑圧された芸術的野心を持つ人物として、父親バート(ポール・ダノ)は理性的で感情表現の乏しい性格として描かれている。
ミッツィの複雑な性格は、彼女のピアノ演奏シーンに象徴的に表現されている。彼女の指が鍵盤を叩く音、その繊細な演奏は、彼女の内なる情熱と葛藤を物語っている。一方、バートの理性的な性格は、彼が仕事で成功を収めながらも、家族の感情的なニーズに応えられない姿に表れている。
この両親の対照的な性格は、サミーの芸術性と技術力の源泉となっている。母親からは芸術的感性を、父親からは技術的な思考を受け継いだサミーは、それらを融合させることで独自の映画スタイルを確立していく。この描写は、スピルバーグ自身の映画作りのルーツを探る上で、非常に示唆に富んでいる。
さらに、家族の友人ベニー(セス・ローゲン)と母親の関係が家族に与える影響は、家族の崩壊と再生というテーマを深めている。この複雑な人間関係は、サミーの視点を通して描かれることで、より重層的な物語となっている。サミーが自作の映画の中にこの関係性を捉えてしまう場面は、芸術が時として不都合な真実を明らかにしてしまう力を持つことを示している。
ユダヤ人としてのアイデンティティ:差別と文化的葛藤の中で
高校でのユダヤ人差別や反ユダヤ主義的いじめの経験は、サミーのアイデンティティ形成に大きな影響を与えている。これらの場面は、1950年代のアメリカ社会に根強く残る差別や偏見を鋭く描き出している。サミーが差別に立ち向かう姿は、単に個人の成長を描いているだけではない。それは、アメリカ社会におけるマイノリティの苦悩と闘争の縮図でもあるのだ。
同時に、キリスト教徒の女の子との関係を通じて描かれる文化的葛藤も、重要なテーマの一つとなっている。この関係は、宗教や文化の違いを超えた人間関係の可能性と難しさを示している。サミーがこの関係を通じて自己のアイデンティティと向き合う姿は、多文化社会アメリカの縮図とも言えるだろう。
これらの経験は、後のスピルバーグ作品における「アウトサイダー」や「異邦人」のテーマにつながっていく。「E.T.」や「シンドラーのリスト」など、彼の代表作の多くに、この時期の経験が反映されていることがわかる。
芸術と人生の交錯:映画製作を通じた現実の再構築
サミーが映画製作を通じて現実を再構築し、コントロールを得ようとする姿は、芸術と人生の密接な関係を表現している。特に、家族の秘密や葛藤を捉えた自作映画を通じての真実の発見は、映画製作が単なる趣味ではなく、人生を理解するための手段であることを示している。
この過程は、芸術家としてのスピルバーグの成長過程を象徴している。現実の出来事を映画という形で再構築することで、サミー(そしてスピルバーグ)は自身の経験を客観視し、理解を深めていく。これは、芸術創作の本質的な意義を問いかけているのだ。
さらに、サミーが自作の映画で学校のいじめっ子を英雄的に描く場面は、映画の持つ現実変容の力を示している。この行為は、単なる現実逃避ではない。それは、芸術を通じて現実に介入し、新たな可能性を創造する試みなのだ。この描写は、スピルバーグ自身の映画哲学を如実に表している。
映画製作の技術と哲学:編集の重要性と真実の表現
本作では、編集の重要性と真実の表現方法についての洞察が提供されている。特に、高校時代に製作した「ディッチ・デイ」の映画が重要な転機となる場面は、映画製作の技術と芸術性の両面を探求している。
サミーが撮影した素材を編集する過程は、映画製作の本質を映し出している。何を残し、何を切り取るか。その選択の一つ一つが、最終的な作品の意味を形作っていく。この過程は、現実をどのように切り取り、再構成するかという映画作家の根本的な問いを提起している。
さらに、ジョン・フォード監督との出会いのシーン(映画の最後)は、映画製作の哲学を象徴的に表現している。フォードの「地平線は絶対に真ん中に置くな」という助言は、単なる構図の話ではない。それは、既存の枠組みにとらわれず、新しい視点で世界を見ることの重要性を説いているのだ。
スピルバーグの自己分析:トラウマと創造性の関係
「ザ・フェイブルマンズ」は、スピルバーグ自身の作品に込められた心理的要素の探求でもある。幼少期のトラウマや家族の複雑さが創造性にどう影響したかについての考察は、彼の全作品を新たな視点で見直すきっかけを提供している。
例えば、両親の離婚という経験は、スピルバーグの多くの作品に見られる「欠落した父親像」のテーマにつながっている。「E.T.」や「ジュラシック・パーク」など、彼の代表作の多くに、不在の父親や機能不全の家族というモチーフが登場する。「ザ・フェイブルマンズ」は、これらのテーマの源泉を明らかにしているのだ。
また、映画への没頭が現実の問題から逃避する手段であったことも示唆されている。しかし、それは単なる逃避ではなく、現実を理解し、乗り越えるための手段でもあった。この描写は、芸術創造の持つ治癒的な側面を浮き彫りにしている。
映画の力:現実を再構築し、人生を変える媒体として
本作では、映画が単なる現実逃避の手段ではなく、現実に介入し再構築する強力な手段として描かれている。これは、スピルバーグの映画哲学を反映すると同時に、映画という芸術形態の本質的な力を探求している。
サミーが自作の映画で現実を再解釈し、時には変容させていく過程は、映画の持つ力を如実に示している。例えば、いじめっ子を英雄的に描くことで、現実の人間関係に変化をもたらす場面は、映画が単なる記録や娯楽以上の力を持つことを示している。
さらに、家族の秘密を映画で偶然捉えてしまう場面は、カメラが時として意図せず真実を暴露してしまう力を持つことを示している。これは、映画が現実を映し出す鏡であると同時に、現実を変容させる力も持つという、映画の二面性を表現している。
結論:スピルバーグの集大成としての「ザ・フェイブルマンズ」
「ザ・フェイブルマンズ」は、スピルバーグの個人的な経験と、彼の映画作家としての成長過程、そして映画という芸術形態の本質的な力を探求する多層的な作品だ。それは単なる自伝的な物語以上に、映画への愛と映画が人生に与える影響についての深い洞察を提供している。
本作は、スピルバーグのキャリアの集大成とも言える重要な一本だ。それは彼の過去の作品群に新たな文脈を与え、彼の創作の源泉を明らかにしている。同時に、それは映画という媒体の持つ力、その可能性と限界を探求する野心的な試みでもある。
「ザ・フェイブルマンズ」は、映画ファンにとって見逃せない作品であるだけでなく、芸術創造の本質、家族の絆、アイデンティティの形成など、普遍的なテーマを探求する深遠な人間ドラマでもある。それは、スピルバーグという一映画作家の物語を超えて、20世紀後半から21世紀にかけてのアメリカ社会の縮図を提示しているのだ。
この作品は、スピルバーグの半生を振り返るだけでなく、彼の未来の作品にも大きな影響を与えるだろう。自身のルーツを探り、創作の源泉を明らかにしたことで、スピルバーグは新たな創造的段階に入ったと言えるかもしれない。この自己省察の旅は、彼の今後の作品にどのような影響を与えるだろうか。より個人的で内省的な作品が増えるのか、それとも初期の作品のような大胆で冒険的な物語に回帰するのか。いずれにせよ、「ザ・フェイブルマンズ」は、スピルバーグ映画の新たな章の幕開けとなる作品だと言えるだろう。