【映画評】『コーポレート・アカウンタビリティ』(2020) 感想

『コーポレート・アカウンタビリティ』(2020)(監督:ジョナサン・ペレル)の概要

作品概要

英題Corporate Accountability
上映時間68分(1時間8分)
制作年2020年
製作国アルゼンチン

メインスタッフ・キャスト

担当名前
監督・脚本・編集ジョナサン・ペレル

予告編

動画配信(主要サイト)

前提として、日本ではイメージフォーラム・フェスティバル2024のみでの現在放映された作品である。(2024/10/16)

名前Prime VideoU-NEXTNexflixHuluLemino(旧dTV)
ロゴ
見放題なしなしなしなしなし
2024/10/16(水)時点

あらすじ

利益追及の企業原理と抑圧的な軍事独裁政権の共犯関係。忘却された事実を風景に炙り出すポリティカル・サスペンス的なドキュメンタリー。
軍事独裁政権下(1976-1983)のアルゼンチンで、数万人が誘拐、監禁され、その後殺害された。事件そのものは70年代という過去のものだが、従業員を組織的に軍政側に引き渡して協力した大企業の多くは現在も操業中だ。秘密捜査の張り込みをする刑事のように、車のフロントガラス越しに企業の工場正門を隠し撮りする作者の緊張と興奮。ベルリン映画祭やアムステルダム・ドキュメンタリー映画祭で上映されその鮮烈な風景映画の手法が注目された。

以下ネタバレ


感想・考察・背景

静寂の中に潜む真実:独特の撮影手法

ジョナサン・ペレルの最新作「コーポレート・アカウンタビリティー」は、一見シンプルな撮影手法で観る者を引き込む。車窓から捉えた工場や企業の外観。そこに重なる淡々としたナレーション。この静的な映像と音声の組み合わせが、驚くほど強烈なメッセージを伝えているのだ。

ペレル監督は、まるで私立探偵のように車内から企業を観察する。その視点は、我々観客の目線と重なり、まるで共犯者のように秘密を共有しているかのような錯覚を覚える。薄暗い夜明けや夕暮れ時に撮影されたシーンが多いことも、この作品に独特の雰囲気を醸し出している。

ナレーションは2015年のアルゼンチン法務・人権省の報告書から抜粋されたものだ。しかし、この報告書は公開されていない。つまり、ペレル監督は未公開の機密情報を、映像という形で世に問うているのである。この事実だけでも、本作の持つ意義の大きさが伝わってくるだろう。

明かされる暗黒の歴史:アルゼンチン軍事独裁政権と企業の共謀

1976年以降のアルゼンチン軍事独裁政権下で起きた人権侵害。本作は、その中でも特に企業の加担に焦点を当てている。25の事例を通じて、企業と政権の共謀関係が赤裸々に描かれていく。

これらの事例には、国内企業だけでなく、メルセデス・ベンツ、フォード、フィアットといった国際的な自動車メーカーも含まれている。つまり、この問題は一国の問題ではなく、グローバルな企業倫理の問題でもあるのだ。
また、La Nueva Provincia新聞社の事例は、メディアに対する独裁政権の影響力を示している。言論の自由が奪われた社会で、企業がいかに容易に権力に屈するかを如実に物語っているのである。

アルゼンチン軍事独裁政権:「汚れた戦争」の暗黒史

「コーポレート・アカウンタビリティー」の背景を理解するためには、アルゼンチンの近現代史を知る必要がある。1976年3月24日、アルゼンチン軍部はクーデターを起こし、イサベル・ペロン大統領を追放した。これにより、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍を筆頭とする軍事政権が誕生する。この政権は1983年まで続き、「国家再組織プロセス」と呼ばれる過酷な統治を行った。

この時期は「汚れた戦争」として知られている。軍事政権は、左翼ゲリラや政治活動家、知識人、学生、労働組合員などを「国家の敵」とみなし、大規模な弾圧を行った。その手法は残虐を極め、拉致、拷問、殺害、そして「失踪」が日常的に行われた。

特に悪名高いのが「失踪」である。政府や軍の関係者が、標的とした市民を拉致し、秘密の拘置所で拷問を加えた後、多くの場合、殺害した。遺体は海に投棄されたり、秘密裏に埋められたりした。これにより、家族の安否を知ることができず、長年の苦しみを強いられることとなった。

人権団体の推計によると、この時期に「失踪」した人々の数は約30,000人に上る。その中には、妊娠中の女性も多く含まれており、彼女たちから生まれた赤ん坊は軍や警察関係者に不法に養子として与えられた。これらの子どもたちの捜索は、現在も「5月広場の祖母たち」という団体を中心に続けられている。

この軍事政権の特徴の一つが、企業との密接な関係だった。政権は、労働運動を抑圧することで経済の「安定」を図ろうとし、そのために企業の協力を仰いだ。一方、企業側も労働争議の抑制や「問題分子」の排除といった利益を得た。本作品が描くのは、まさにこの権力と資本の醜い共謀関係である。

1983年、民政移管が行われ、ラウル・アルフォンシン政権下で軍事政権の指導者たちの裁判が行われた。しかし、その後の恩赦や時効立法により、多くの加害者が罰を免れることとなった。2003年以降、これらの法律は撤廃され、人権侵害の責任追及が再び活発化している。しかし、企業の責任追及はいまだ十分とは言えない状況だ。
このような歴史的背景を踏まえることで、「コーポレート・アカウンタビリティー」が提起する問題の重要性と、現代社会への示唆がより深く理解できるだろう。

数字が語る非情:人権侵害の実態

ナレーションで読み上げられる数字の一つ一つが、悲惨な現実を物語る。拉致された労働者の数、拷問を受けた活動家の数。これらの数字の背後には、一人一人の人生と苦痛が隠されているのだ。
例えば、ある企業では数十人の従業員が「失踪」した。別の企業では、百人以上の労働者が逮捕された。これらの数字は、単なる統計ではない。家族を失った人々の悲しみ、突然の逮捕で人生を狂わされた人々の怒り、そういった感情の集積なのである。

さらに恐ろしいのは、これらの行為が組織的に行われていたという事実だ。企業の人事ファイルを手に持った軍人が尋問を行ったという証言もある。つまり、企業は単に黙認していただけでなく、積極的に加害に加担していたのである。

利益と人権:企業の選択

本作は、企業がいかに自らの利益のために人権を軽視したかを明らかにする。政府への負債移転や労働力の抑圧による利益増大など、企業側の「メリット」が冷徹に提示されていく。
ある企業は、「問題のある」従業員を排除することで、数百万ドルの負債を政府に肩代わりしてもらった。別の企業は、労働組合の弱体化により、生産性を大幅に向上させた。こうした「成果」は、企業の四半期報告書には数字として現れるかもしれない。しかし、その裏で失われた人命や人権は、どこにも記録されないのだ。
この構図は、現代のグローバル経済にも通じるものがある。利益を追求するあまり、人権や環境を軽視する企業の姿勢。それは形を変えて、今も世界中で見られる問題ではないだろうか。

繰り返しが生み出す衝撃:映画の構造

同じようなパターンの繰り返し。それは一見単調に感じられるかもしれない。しかし、その繰り返しこそが、問題の深刻さと広がりを観る者に突きつけるのだ。
各シーンは企業のロゴから始まる。続いて数分間の外観ショット、そして場所を示すタイトルカード。この構造が25回繰り返される。初めは単なる情報として受け取っていた内容が、繰り返されるうちに観る者の心に重くのしかかってくる。
この繰り返しは、人権侵害の広範さを示すと同時に、私たちの認識の限界も示している。一つ二つの事例なら「例外」として片付けられるかもしれない。しかし、25もの事例が積み重なれば、もはやそれは「システム」と呼ぶべきものだと理解せざるを得なくなる。

過去と現在:変わらぬ力関係への警鐘

40年以上経った今も、これらの企業の多くは責任を問われることなく存続している。本作は、過去の出来事を描きながら、現代の権力構造にも鋭い視線を向けているのだ。
ペレル監督が撮影した企業の多くは、今も営業を続けている。つまり、彼らは法的にも社会的にも十分な責任を問われていないということだ。さらに言えば、この報告書が5年近くも公開されずにいるという事実は、これらの企業が今も政府に対して強い影響力を持っていることを示唆している。
この状況は、正義よりも金銭が優先される社会の在り方を如実に物語っている。過去の罪が清算されないまま、同じような力関係が維持されているのだ。これは単なる歴史の問題ではなく、現代社会の根本的な問題を指し示しているのである。

静かなる告発:映画製作者の姿勢

ペレル監督は、直接的な非難を避け、あくまで観察者的な立場を貫く。しかし、その冷静な視線こそが、観る者の心に深く刺さる政治的メッセージとなっているのだ。
監督は自ら声を上げることはしない。ただ、カメラを回し、報告書を読み上げるだけだ。しかし、この「中立的」な姿勢が、逆に強烈な告発となっている。観客は与えられた情報から自ら結論を導き出さざるを得ない。それは、より能動的で深い理解につながるのである。
また、この手法は検閲や訴訟のリスクを最小限に抑える効果もある。事実を淡々と提示するだけなら、それを「誹謗中傷」と呼ぶことは難しい。ペレル監督は、最も効果的かつ安全な方法で、この重要な問題を提起することに成功しているのだ。

芸術性と社会性の融合:評価

単調とも取れる構成に、退屜さを感じる部分もあるが、その単純さこそが本作の力であるとも言える。政治的なドキュメンタリーとしての価値を高く評価する声が大半を占めているのだ。
確かに、25の事例を同じパターンで描写し続けるという構成は、娯楽性を求める観客には物足りないかもしれない。しかし、芸術は常に楽しいものである必要はない。時として不快さや退屈さこそが、重要なメッセージを伝える手段となることもあるのだ。
本作の真価は、その内容の重要性と表現方法の適切さにある。単純な構成だからこそ、複雑な問題の本質が浮き彫りになる。そして、その単純さゆえに、より多くの人々に届く可能性を秘めているのである。

結論:沈黙の中に響く真実の声

「コーポレート・アカウンタビリティー」は、静寂の中に真実を語らせる力強い作品だ。過去の罪を直視し、現在の社会を見つめ直すきっかけを与えてくれる、重要なドキュメンタリーと言えるだろう。
本作は、単なる歴史ドキュメンタリーではない。それは、現代社会に対する鋭い問いかけでもある。企業の社会的責任とは何か。利益と人権のバランスをどう取るべきか。過去の過ちにどう向き合うべきか。これらの問いに、私たち一人一人が向き合わなければならない。
ペレル監督は、カメラを通して私たちに語りかける。その声は小さいかもしれない。しかし、その真摯な姿勢と鋭い洞察は、確実に観る者の心に届くはずだ。この作品を通じて、より多くの人々が歴史と現在の問題に目を向け、よりよい社会の実現に向けて行動を起こすことを期待したい。